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💓不登校は命を守る自然な反応💓決して怠けではありません ◆★◆それでも、学校に行ってほしいと多くの人が必死になるのも分かります。でも、必死になるとかえって事態を悪化させてしまいます★💓★「不登校にもなれなくて無理を続けている子」も忘れず❤不登校の親を経験して学んだ事を、常識から気ままにはみ出しながらつづります(^-^)❤
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2010年06月30日 (水) | 編集 |
 私が小学生の頃、佐世保の街には外人さんがたくさんいて、私の家の近くには、外人さん専用のバーがありました。繁華街から少し離れた眺めのいい場所には、広い庭のある白い家が金網に囲まれて並んでいました。そして空き地の中に、これまた金網に囲まれた三角の公園がありました。当時はどうして入れないのか分からなかったけど、中にはブランコとか滑り台とかがありました。

 一度、外人の子と言葉を交わしてみたことがあります。リンゴを持っていたので「アップル」と言ってみました。通じませんでした。でも、何故か一つのボールを投げ合って数名で遊びましだ。子どもが遊ぶのに言葉はいらないのかもしれません。

 今、その一帯は広い公園になっています。住宅地には出来ない決まりでもあるのでしょう。佐世保は平らな土地がほとんどなくて、坂の上のそのまた上の方まで家がぎっしり建っているのに、その外人さんが住んでいた一帯は、緑溢れる素敵な森林公園になっています。
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2010年04月23日 (金) | 編集 |
 いつ頃始まったのか、いつ頃廃止になったのか知りませんが、私が小学生の頃、小学6年と中学3年で健康優良児を選んで表彰していたと思います。

 どういう審査が行われたかというと、成績や健康状態や運動能力、更に身体測定などで、総合的に優秀な子が選ばれました。もちろん出席状況も影響します。学校から代表が選ばれ、さらに市町村ごとに代表が選ばれていたと思います。小学生でも中学生でも男女ともパンツ一枚で審査員の前に立ち、体型などの審査も受けるのです。そして最優良児はその姿を写真に撮られて、さらに大きい大会へ資料と一緒に出す。そんな仕組みになっていたのではないかと思います。
 ちょっと問題ありでしょ!だからいつの頃か、廃止になったのです。




 当時、健康優良児で県で表彰されても、今健康で暮らしているかというと、必ずしもそうではありません。ある女性は59歳で亡くなりました。160cmあった身長は150cm程になり、後姿は80歳のおばあさんのようになって、原因不明の突然の死でした。でも、あれは過労死だったと私は思います。


 無理し過ぎてはいけませんよ。無理して命を縮めても、誰も喜ばないのですから。自分の責任だと思い込まずに、人を信じて手伝ってもらいましょう。


 でも、彼女は精一杯生きたと思います。幸せだったのかもしれません。私にはもう確かめようはありませんが・・・・・。

 
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2010年04月10日 (土) | 編集 |
 私が小さい頃、我が家には氷で冷やす冷蔵庫があったような気がします。近くのお米屋さんに氷を買いに行くと、氷の柱を測って切って売ってくれました。それをカキ氷にして食べたような記憶もあります。

 電気洗濯機には、手動の絞り器が付いていました。確か直径5cmくらいのローラーみたいなものが二本付いていて、それに洗った洗濯物を挟んで、ぐるぐるハンドルを回すと、洗濯物が伸しイカのようになって出てくるのです。厚手の物を絞る時はとても力が要りました。

 まだ〝洗い張り〟もしていました。古い着物はほどいて洗い、木の板に濡れたまま貼り付けて乾かし、再利用するんです。和服というものは、洋服と違って殆ど直線で裁って手縫いなので、ほどいていろいろな物に作り直せるのです。綿なら最終的には、おしめや雑巾ですね。

 掃除機がいつから我が家にあったかは、よく覚えていません。でもおばあちゃんは、はたきをかけ、使った茶葉や、新聞紙を濡らして固く絞って細かくちぎった物を、パラパラと部屋に巻いて、それを箒でかき集めて掃除をしていました。私もしていましたけど、おばあちゃんみたいにうまくはたきはかけられませんでしたね。

 お風呂の燃料は、まきから石炭へ変り、そしてガスになったと思います。我が家は男尊女卑でしたので、家事を男がすることは、殆どなかったと思いますが・・記憶違いでしょうか。嫌なことにこの悪しき習慣は、私の身に未だにこびりついています。人はされたようにしてしまう、悲しい習性があるのですよ。だから、優しく愛して育てないとネ。

2010年03月12日 (金) | 編集 |
 私は小さい時は、主に一人遊びをしていたように思いますが、おてんばでもありました。廊下の向かい合わせの壁と壁に両手と両足を広げて両側の壁を押しながら天井近くまで登ったり、柱に猿のようにしがみついてよじ登ったり、壁を支えに逆立ちをしたりしていたものです。

 外ではまりつきをしたりもしました。お手玉もわりと得意でした。

 我が家は二階に干し場があって、隣の家のイチジクの木が侵入してきていました。だからその木をつたったりして、隣の庭(染物の干し場)に飛び降りてお隣のおじさんの仕事を見たり、そこの子と遊んでいた覚えがあります。

 そんな中、私独自の遊びがあったので、そっと教えましょう。一つは地味な遊びです。色のついた柔らかい石を、コンクリートなどでこすると、粉になります。きれいなオレンジや黄色の粉になるのです。それを何か入れ物に集めて、薬に見立てて遊んでいました。多分一人で。

 それからもう一つ。これはなかなかの発見だと思っているのですが、鏡を使います。出来れば顔幅ぐらいの大きさがあるといいのですが。それを顔の前で床と平行に天井が見えるように持って、その鏡に写った天井を見ながら、家の中を歩き回るのです。その前に、床はある程度片付けて置かないと危険ですよ。一度やってみてください。何がどう面白いのかが分かると思います。くれぐれも安全な場所でお願いします。天井からいろいろぶらさがっていたりするとよけい面白いのですが・・・。自分も同じことをしていたという方がいたら、是非教えてください。   かずえ

 
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2010年02月25日 (木) | 編集 |
 公園では「この線から入ってはいけないよ」と言いながら、地面に棒切れで円を描いて「ガマの油売り」や大道芸人が芸をみせていました。それからまだ紙芝居をやっていました。三本(だったかな)の棒についた水あめを買って子どもたちがそれを白くなるまで混ぜたりしながら見ていたように思います。私はその頃お小遣いというものをあまりもらっていなかったので、殆ど離れて観るだけでした。
 リヤカーで、ぺラッとした薄いお好み焼きを焼いて子ども達に売っている人もいました。お皿や包装はは新聞紙です。それが普通でしたね。
 チリンチリンと鐘をならしてアイスクリーンを売って歩くおじさんやおばさんもいました。そういえば友だちのお母さんもあの商売をしている人がいました。アイスクリーン売りはかなり長く続いていたと思います。
 
 佐世保には「佐世保駒」という「喧嘩駒」があって、ぶつけて合って、相手の駒を叩き割る遊びがあったのですが、私が小学生の時に禁止されたようでした。そして「馬乗り」という遊びをよくやっていたのですが、これも途中で禁止されたのです。たぶん怪我人が出たのでしょう。

なにやら不吉な風が吹き始めているようなそんな小学生時代です。
2010年02月05日 (金) | 編集 |
不登校について話していると、よく「昔はそんな子いなかった」とか「いつ頃からこうなったんだろうか」とか「昔の子はもっと我慢強かった」とかいう話が出ます。そんなこともあって、昔の子どもとして幼い頃を振り返ってみようと思い、〔私の幼い頃〕を書いてみようかなと思ったわけです。

小学生の頃、防空壕に住んでいるクラスメイトがいました。みんなにばかにされていたように思います。名前も顔も覚えています。彼は時々学校を休んでいたように記憶しています。でも、大人が大騒ぎしているところは見たことありません。子どもたちもです。いつのころか転校したようでした。防空壕も埋められました。

元やくざとうわさされる父親をもつクラスメイトたちもいました。とても優しい子や人気のある子でした。刺青を目にしたことがあります。〔蛇足ですが、私の母は私が赤ん坊の頃、そのクラスメイトを抱いた父親が、男に日本刀で切りつけられたのを見たと言っていました。それを聞いたのは最近のことですが〕

橋の上で、白い服を着て、足や手に包帯をぐるぐる巻いた男性が、物乞いをしていました。珍しいことではありませんでした。


2010年02月01日 (月) | 編集 |
私の育った家は台所に釜戸とガスコンロが並んでいました。今考えるとちょっと可笑しなうちです。祖母が頑固だったらしく「かまどが要る」と譲らなかったとか・・・。とはいっても、お湯を沸かすことぐらいにしか使っていなかったように思います。
私はかまどに火をくべるのが好きでした。新聞紙や雑誌を破いてくしゃっとねじってかまどの火の中にほうり込むと、いろんな色の炎が出ます。インクの色で変るのでしょうか、赤ばかりではなく、青や緑や紫の炎、飽きずに見ていました。頼まれたからしていたのか、かってに遊んでいたのか、はっきりしませんが。

そういえば、火鉢もありました。しかも一年中。これも祖母がキセルでタバコを吸っていたので、たえず墨に火が付いていました。股火鉢とか(ご存知でしょうか?)したものです。弟が。